松本さん

  • 2016.07.03 Sunday
  • 22:15
人間には、男がいて女がいる。動物には、雄がいて雌がいる。全部に、生きる命がある。そこに、儚さと美しさがある。
その大切さ、愛おしさを、ただただ、噛み締めたいという思いで、カゲロヲ という名を思った。

ぼくが、草壁 カゲロヲ って芸名を考えたとき。
かげろを は、自分で用意したまんまで、名字は、ひのもと って今考えたら浅はかだが考えていた。松本さんに伝えると、「維新派でもたいがいやのに、日の本 言うたら、右の人らと間違えられてかなわんで」言うて、ワープロをカタカタ弾き、日のつく名字の関連で日下部 が出て、そこから、「おっ、これええんちゃうか」言うて、もうひとつ多くキーを叩いて変換で出た 草壁 がつくことになった。
あとで誰かに唐十郎が根津甚八って名前与えたのと同じような感じやなぁって言われたが、ありがたく思っていた。
のちに、ちょっとかっこつけて、草 壁 かげろを の文字の全てを含んだ斉藤茂吉の歌をあるとき見つけ、これから取ったんですわ、って言うときもあった→

壁に来て 草蜻蛉は すがりおり 透きとおりたる 羽のかなしさ


この 草壁カゲロヲ が生まれたのは、岡山県は津山市の菩提寺という山の中で合宿を行ってたときだ。

ある日、通常の肉体メニューの後に、松本さんが、「ひとりひとり、一発芸みたいな、なんか好きなことせえ」って言うた。

ぼくは、壁に背中当てて膝を曲げた、所謂、空気椅子の状態になり、好きなエレファントカシマシの 見果てぬ夢 を歌った。


空気椅子で、足がぷるぷるするのとサビの絶叫がうまくマッチした響きがあった。
終わってから、松本さんが、「おお、ええやん」って、言うてくれたような気がしてる。


ぼくが二十歳。出会ったころのその出で立ちは、丸坊主に上下ボーダー柄のスウェット姿で、ゆらゆらしながら要所要所でテキパキ動く牢名主のような大工の棟梁のようだった。

維新派、松本雄吉。

その頃は44歳で、今のぼくはちょうど同じ歳になったんやなぁ〜、ってたまたま最近ちょいちょい思い返すことがあった。

そのころは、美術スタッフをしていた。
初めは、大学の夏休みに園子温監督の元でロケハンなど映画の準備を手伝うことをしていたが、その映画の美術さんが維新派の美術スタッフでもあった縁で、東京の下町らしい雰囲気のある東向島のアトリエに作業を手伝いに通ってたのだった。
維新派、初の東京・野外公演。そびえ立つ東京タワーのそばにある汐留の、元は貨物の駅だった広い空き地で行う 少年街 の準備をしていた。
渋谷のパルコの駐車場でプレイベントをやるのでイントレを建てる作業をした。
夜中に仕込んだ。雨がざぁざぁ降った。
しんどいのになんか楽しかった。この感じは初めてやった。
プレイベントにはたくさんの人が集まった。本番は前から見てたが、ちょっとした事件であった。そうそうたる顔触れの映画人も見た。

ある日、園子温監督の映画の準備がストップした。(その映画は、ひそひそ星。25年を経た現在、完成する) 体が空いたし、どっぷり維新派の美術作業に加わることになった。

夏明けから始まる大学に休学届けを出しに行き、少年街の公演の裏方(本番つきスタッフ)をすることにした。
その決意を園子温監督に苦渋の有り様で伝え、短い間お世話になった監督の元を去った。

東京の空に雨が降り続いた。プレハブの隅に隠れるみたいに少しでも長いこと居眠りしてたかったぼくの横で、松本さんの叩くワープロのキーボードがカタカタ鳴って、作業に戻った。その時の松本さんは何も言わなかったけど、
後になって、あの頃のぼくの印象を「あん時お前はもやしッ子みたいやったなぁ」と語った。

番線の縛り方は、松本さんが「時計回りにキュってするんや」って、なんか、ちょっとやさしく教えてくれた。
たまに見せる大工の腕は手際よく、特に松本さんの作る階段は、パーツの組み方に無駄がなく頑丈でかっこよかった。

焼酎麦の湯割りを呑みながら、卓の上の茶碗を何気なく一緒に眺め、「この色は白といえば白やけど、なんで白って言えるんや、茶碗って名前がなかったらこれは丸い形の入れもんって呼ぶんやろなぁ」みたいなことを言うて、価値観を真っ平らにしてモノの本質を探るような見方にハッとせられ、あ、この人は絶対おもろいわ、って、好きになった。

恥づかしながら、好きになる女性のタイプはだいたい一緒やったような。
だから、松本さんは師匠でもあり、ライバルでもあった。新人のくせに問題児だったと思うが、思うままになんでもやってみる毎日が新鮮で刺激やった。

まだ初舞台も踏んでおらず、ぼちぼちと稽古に参加し出したころだったと思う。
大駱駝艦の麿さんが出る舞台を松本さんと先輩の由美さんについていき観た後、楽屋見舞いにのこのこついてったとき、松本さんのそばにいるぼくを見た麿さんが、冗談で「おお、松ちゃんの息子か」って、いなせな口調で言うのを聞いて、松本さんが「へへ、隠し子だんねん」って返し、ムフフって笑うお二人のあったかさとやさしさと、これから自分にも役者の道が始まるんやっていうワクワク感に身震いを感じてた。

裏方から一転、舞台に立ちたいって思ったのは、少年街の楽日のとき。
袖から、動いてる役者さんたちを見てて、ふと、あっ、この舞台に立ったらおもろいやろなぁ!って、思うと同時に雷に打たれたみたいな電流が身体に走った。そんな瞬間的な感覚だった。

新人として立つ舞台は、名古屋、九州、東京と、地方も回るツアーから始まる。場数もこなせるし、土地土地の人との交流も楽しかった、虹市。 キャチコピーもおもしろく、地球ハ回ル、目が回ル。
最後は、大阪、南港で締めくくる。

ザンザンザンザァザァ ザンザンザンザァザァ 雨降りのパーティー どしゃ降りパーティー スクラップパーティー…
やぶれノイズ ちぎれノイズ 赤カビ 青カビ 黒カビ 黄カビ…
スクラップポルノ という場面のセリフと動きが身体に一番しっくりきた。
ラストは、虹市 という場面でゴミの道を歩く少年らが虹を見るっていう場面だった。
虹市の楽日に、客席後方にあると想定する虹の向こうに、ほのかに埴谷雄高の本に出てきそうなイメージの宇宙みたいなんが見えた気がして、次の兆しみたいに思って、役者、ずっとやっていこうか、と思った。

オモロすぎて人生だいなしや というのは、少年街のドキュメント映画 蜃気楼劇場 のキャッチコピーであるが、ぼくはまさに、だいなしでもいい、って思って、大学もやめた。

稽古のあとに谷町六丁目の事務所から銭湯に近いお好み焼き屋に食べに行く時間が好きやった。
店のおばちゃんが鼻声で「はい、トマター」って出てくるトマトの入ったオムレツを最後のしめにいただくとき、「おお食べとけ食べとけ」ってタバコ吹かしながらビールを飲む松本さんの笑顔はお父ちゃんみたいやった。
何回か、松本さんと先輩のフルカワ君と銭湯に行った。フルカワ君は締まった筋肉をしていて、痩せて肉体には誇れるものがないぼくは身体を縮めてが、松本さんもどことなく背中を丸めて、湯船に浸かってた。けど洗い場の椅子の下からぶらっとのぞく金玉はめっちゃおっきかった。

おっきかったで思うのは、役者、松本雄吉と舞台を共に立てた経験はおっきかった。
一回目が、名古屋の白川公園で行われた、少年王者舘、てんぷくプロと維新派の合同公演 高岳親王航海記。
二回目が、維新派 nostalgia。
高岳親王を演る松本さんは、神々しかった。
松本さんが舞台でひとりでぽつんと走る場面があった。
初めに見たとき、なんか身体の内側からこみ上げるものが湧いて、震えて、気づいたら泣いてた。
心底、すごいなぁ、と思えた。
映画では、ビリケン に商店街のおっちゃん役で出てた。あと、追悼のざわめき で 声だけの出演で、めっちゃマイルドな声で、肉声というのはこういう声なのかもと、憧れる。
声の出し方は、腹から声をおもいっきりだす。というのを教わった。
いろはにほへと…を、

色は匂えど散りぬるを
わが世たれそ常ならん
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し酔いもせず

と正座で二人互いに視線をそらさず、謡のように声を出す、のや、フェードルのテラメェヌの一節を、伝統芸能のように口伝で教わった。
そのことは、ぼくの重要な基礎にもなってると思う。
役者を始めて、背筋が伸びるようになった。


松本さんが脚本を書くワープロを新しいのに替えたとき、ワープロのおさがりをもらったし、自分でも、ヂャンヂャンオペラの一場面でも書けないかなぁと、挑戦したが、挫折した。

ボツになる文章を見せたあと、松本さんは、「誰かに手紙を書くように文章を書け」って言うてくれた。その言葉は、いつも忘れてない。




前略、松本さん。

あなたはほんとにご立派 スリッパ ヨーロッパでした。
あなたの描いた言葉の数々、たとえば…エロ猫 ドラ猫 蓄膿犬 は、西成の町を歩きながら描いたと聞きました。
描いた とあえて言うのは、あなたは町をスケッチするように歩いて書いたからです。
あなたは、猥雑な町の路地の匂いから、小便の匂い 焼酎の匂い 樟脳の匂い と描きました。
カカァ 風邪ひき 漢方薬 髪の毛 カサカサ 牡蠣雑炊 カツ丼 カツレツ カッパ巻き…
言葉の並べ方で、こんなにもオモロイ景色が絵になります。
ぼくは松本さんの描く絵を、言葉を、なぞるように舞台で、約10年間、生かせてもらいました。
今も、眠るたましいを揺さぶるように言葉を放ち、誰かに声を届けたい 、動きたい、そんな役者でありたいと、思っています。

維新派でありながらも、Lowo=Tar=Vogaの旗揚げを認めてくださった松本さん。
雄吉 という、その名の通り、雄大な人です。
ぼくらの一回目のBar フィネガンズウェイクでのコントのようなライブ公演では、上演中、松本さんから何度も発せられる「あほ〜」という野次で、会場の温度を上げていただきました。けど終演後、ぼくが演ったラジオドラマ風の音と声と同時に障子紙に影絵を描くパフォーマンスについて、「ええんちゃう」って、ボソッと照れくさそうに言ってくれました。

二回目の瓢箪山稲荷神社野外公演では、楽日に足を運んでくれました。
それから、何年か後、ぼくらの10周年公演 新青年の公演の時が、ぼくらの公演を観ていただいた最後だと思います。

沢田研二の 危険なふたり をおどけて歌う松本さん。
両手を横につけて、ペンギンちゃん って踊るお茶目な松本さん。
屋台村で「まっちゃん、まっちゃん」って、周りの人たちに声かけられてた松本さん。その「まっちゃん」という響きは、太陽を見て、おてんとさん って言うのと同じような、親しみと尊敬の響きでした。

ぼくが維新派から離れてからも、ちょこちょこ舞台は観に行かせてもらってました。
最近の松本さんの演出される舞台は、ほとんど観てます。ますます、洗練された絵の空気感に圧倒されてました。
レミング の楽日、カーテンコールで出演者の後に、松本さんが出てきたとき、ほんとは、よっ!維新派、松本雄吉!って大向こうが喉まで来てるのに叫べなかった。唯一の悔いです。

松本さんが言った「日記は書かんでええ、手紙を書け」と「表現と行為の違いってなんや」は時々、思い返してます。
維新派のときの記憶の断片がねじれた夢で現れます。
ふと困ったとき、こんなとき松本さんやったらどうするんやろ、って時折思ったりします。

おそらく、ひとりでいててもろくなことなかったであろうぼくを、維新派を通じて、海に、山に、川に、海外に、連れて行ってくれました。

ほんとに大っきな存在で、人を、自然と自分の懐にうまいこと巻き込んで、愛されながら、まっすぐ太く生きてるなぁ〜〜、といつも思っていました。

松本さん。
ぼくは松本さんと出会ったときの同じ歳になりました。
出会ってからも25年。あなたは、町を、人を、歴史を、風景を…、ずーっと見つめ続けてきました。
逆巻く波のごとく人を巻き込んで、描きたいほんまの絵を描いてきました。
ほんまにすごいことやなぁ、ほんまにおっきい船みたいやなぁ、と思います。

松本さんと出会ったときと同じ歳のこれからは、あの頃のあなたの面影を追いかけるように、できれば、いつか肩を並べれるように、たぶん、ぼくなりにしかできませんが、イメージと生き様を大切に、上手に描こうとせず、立っていこう、歩いていこう、と思います。

松本さん。
あなたの居ない町は、どこかさわやかなからっ風が吹いています。
松本さん。
おっきい船の汽笛が、どこか遠くで、鳴るようです。
トーーヤーー
トーーヤーー…と。



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